あれが亜多多羅山~B先生を訪ねて

昭和30年頃のB先生は、たしかまだ40代であった。 その先生がいま90代ということは、あれから半世紀近くがたったことになる。 研究室や学士会館や白十字などで、ぽつりぽつりと話をされていた先生には、 すっかりご無沙汰してしまった。

そこへ先日、「白壁」に何か書けと言う先生直筆の葉書が舞い込んだ。
月曜が海の日の7月17日、思い立ってB先生をお訪ねすることにする。午前よりは昼食が終わった頃がいいだろうと考え、渋谷のフラワーショップで花束を用意して、電車に乗る。外は雨模様で、街はいろいろな傘がめだつ。

ホームの職員の方には「これからお訪ねします」と伝言を頼む。あまり前から言ってしまうと、期待させすぎて、行けないと困るからと前に伝えてあった。

上板橋の駅を降りて線路沿いに歩く。トマトや茄子が植えられていて、まるで家庭菜園のようである。踏切があり、このあたりの東武東上線は、高架にはなっていない。角をまわりまわって、目的の「ひまわり板橋」に到着する。

受付で来客者名簿に署名していて気づいたのであるが、ホーム滞在者の氏名欄は、 だれもが「先生」となるよう、「○○先生」と印刷されてあった。(これはこのホームの社長の方針だという)

二階の談話室に案内される。大きなホールで隅にピアノがあり、犬の置物もある。階段の途中、何枚か習字の練習のようなのが貼ってあり、右手に「則天去私 B」 というのがあり、朱で二重丸がついていた。

しばらく待っていたら、こつりこつりと時差のある音がして、左と右に長さの違う杖をつきながら、B先生が登場された。 眼鏡はかけておられなかった。

いま左の耳が悪いから、と言われながら、なぜか私の右側の椅子に来られて座られる。右手に紙袋を持ち、中から近作の詩歌の載った雑誌をいくつか取り出される。写真も何枚か持って来られた。いろいろ考えて、用意してくださっていたらしい。

ほとんど筆談だと聞いていたので、用意してきた紙にキーワードを書きながら話をする。話があちこちに飛ぶ。記憶がじぐざぐになる。40年、50年の年月が自由自在に話の中に入ってくる。

それは日頃の孤独な生活から出てくる、ほとんど無意識な憂愁の吐露にすぎなかったのであろうか。飄々としながら、インテリらしさをひけらかさない姿は、前のままである。お葉書をいただき、ありがとうございます、ご無沙汰をいたしました、こんどの「白壁」には、何か書きますと申し上げる。

「このホームに、N大の学生バイトが来ているようだが、聞いてみたが、君の倫理学は取っていないようだった」とB先生。レポートを書かせられて大変だという噂が飛び交っていますから、と答える。

いまは「壺」「弘道」「萩」などの月刊・季刊の雑誌に毎月のように書いている。毎号巻頭に出すのだから、けっこう忙しい。短歌、詩、文章、それに俳句とは言えないが、散文のような「散句」も。

この間、D氏に出したものはまだ出ていないのだけれど、傑作だと褒めてくれた。芭蕉の「面白うてやがて哀しき鵜船かな」を思ったりしている。

先生、いま歯の具合はいかがですか、ご自分の歯で、何でも噛めるのですか、とうかがう。歯はもうとっくに全部入歯なんだけれど、嚼めるよ、甘いものは好き。酒もビールものまん。

いまご入り用のものはおありですか。いちばん欲しいのは「切手」だね。郵便局は土日が休みであてにできない。切手を少し買いだめておきたい。N学の定年は、いつなの。68歳が定年です。そのあと、余人をもって代え難いと判断された者は、名誉教授として2年間教えられるのです。私はその2年目です。

そうか、まだ少し教えられるのはいいね。70歳から74歳くらいが人生の頂上に達するとき、もっとも冴えわたっているときだよ。自分は94歳のいまが、いちばんのピークだと思う。私は62歳のとき、紫綬褒章をもらった。そのとき、300人くらいを代表して、昭和天皇にお礼を申し上げた。私はパソコン、ワープロはやらないが、ここでは事務のO女史がぜんぶやってくれている。しかもタダなんだ。

自分はH大の名誉教授ではない。F大とL大の名誉教授。名誉教授は二つあればいい。H大は15年いたが、名誉教授にしてくれなかった。L大学は、週に一コマしか教えなかったのだが、してくれた。 「うなぎ」はいまも好きだね。うどんも好き、そばも好きだね。ここのコックは、魚の皮も食べされてくれるが、これがうまい。こんなことは初めて。これは新しい発見だったね。

先日、私の妻が脳梗塞で倒れましてね、と話しかけたら、それにはかまわず、夫人が脳梗塞になられたとき、夫人が先生の目の前で倒れられたこと、新宿のT病院に搬送されたが3ヵ月ごとに動かされ、結局ここで亡くなられたことを、たてつづけに話される。話をする前に、すでに心のなかで組み立てられていることを、 そのまま暗記したようによどみなく話される。

ここは始め、女性だけのホームだった。わたしは2人目の男性ということになる。彼女は88歳だったから、歳に不足はない。それからは独身。

最近、少し相手が欲しいなあ、と思うことがある。文字通り茶飲み友だちがいたら、いいなあと思う。

ここのホームの社長は、九州霧島の出身だ。私は霧島にある土地150坪を寄付したが、そこへ市が集会所を建ててくれた。それがいまの敷根東集会所になっている。これがその写真だよ、とスナップ写真を出される。そういえば、昨年に、姪の息子がF大J学部に入ったよと、入学式の写真を見せてくださる。

大泉の家は鉄筋建2階10室の老人ホームにしたいという案があった。それには7000万円が必要らしい。そのうち、1000万は練馬区がもつというらしいが。

フロントの人たちはよくしてくれる。事務長のU氏はY大出身。ここで事務に連絡して、カメラのシャッターを押してもらう。事務室のOさんには、パソコンのお礼をいい、 もってきた花束を活けて下さるよう頼む。

Uさんによると、先生は英会話も習っておられるらしいが、ボランティアさんから書道も習っておられ、字を書くとすぐに、まだ(壁に)貼ってない、と催促されますとのこと。

音楽セラピーがはじまったのか、近くで、なじみのある学校唱歌がいくつか聴こえて来る。

それから、先生と一階の居室に移動する。大きさは四畳半くらい。窓を閉め切っているせいか、なまあったかい空気が澱んでいる。入って左側がベッド、右側に低い整理箪笥。ベッドの奥に、背広らしいものが五、六着ぶら下がっている。

ベッドの手前が机。その上は手書きの原稿なのか、書類が散乱している。ベッドの脇とか足元にいろいろな箱が、保存用などと書いて積み重ねてある。部屋全体が書類の山という感じである。夫人の遺影のそばに、お花を供えていただく。ひまわりの花プラスαの花が、部屋にきれいに活けられていた。「ひまわりだね」と、先生に言われて、初めて気づいたのだが、 ここは「ひまわり板橋」であった。

東急フラワーショップの女性が、ひまわりなどいかがですか、と言ってくれたので、いいですねと言ったのだが、 先生にはよろこんでいただく。遺影の横に、池坊専永氏の「生け花」免許の額が飾ってある。

家内は生まれは東京だが、鹿児島出身なんだ。話すとき鹿児島弁はできなかった、と言われる。 そのあと、私は明治45年5月8日生まれ。昭和10年F大卒。平成13年8月、家内がここに来る。 平成14年、私がここに来ると、用意されたことばを呪文のように、一気に話される。

ベッド側の壁一面に、大きな掛け軸が二つ掛けてあった。右側にあるのが「さびしさの極みに耐えて天地に寄するいのちをつくづくと思ふ」 という伊藤左千夫詠、赤彦書のもの。左側にあるのが「あれが阿多多羅山 あの光るのが阿武隈川」という高村光太郎のもの。(この掛け軸をバックに、先生のお写真を撮らせていただく)

話は尽きないが、あまり長居をしてもと、午後3時頃、席を立つ。送っていかないからと、ベッドに座ったままの先生に、おいとまをいう。

帰りは、池袋から丸ノ内線に乗ったが、なぜか本郷三丁目で下車してしまう。雨のなか、福本書院や喫茶室白十字がもうないことを確認しながら、ペリカン書房にも行ってみる。建物はそのままだったが、周りに草が生えていた。喫茶室ルオーに腰をおろして、いつものカレーを注文する。休日なので、今日はもう終わりなんですがと言われたのを、センチメンタルジャーニーに来たと説明する。

いまのルオーは、もとの赤門の側から正門の近くに移動している。じつはむかし、学生証を預けて帰ったことがあるのです、とも言っておく。P書房のMさんは、高齢ゆえ書店はもうやらないが、まだご存命とのことであった。

雨はまだ降っていたが、本郷郵使局の休日コーナーに立ち寄り、先生用の「切手」を何種類か買って帰った。

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